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●ピエトロ・バリウス軍団長、経歴と人物像
今回で3回目となる大規模作戦「ヨーロッパ攻防戦」の司令官、ピエトロ・バリウス氏についてまとめておく。
まずはUPC欧州軍より借り受けた資料を見てもらいたい。
氏名:ピエトロ・バリウス
性別:男
年齢:53
階級:軍団長
略歴
1954年 イタリアローマの裕福な家庭に生を受ける
1972年 イタリア・トリノ士官学校入学
1990年 第一次バグア襲撃時、一青年将校として赴く
1999年 中将に昇進。同年、バグアアフリカ侵攻を経験する。
2001年 UPC欧州軍本部に移籍。中将待遇で迎えられる。
2003年 スペインにて移動中にバグアの襲撃を受ける
2006年 軍団長に昇格
そして現在に至る (UPC欧州軍所蔵 軍人年鑑より)
特筆すべきことは何といっても53歳という『若い』年齢と軍団長という階級の不釣合いであろう。
彼の人生の転機となったのは何と言っても1990年のアフリカ戦線への参加といえる。
当時、まだ本格的な侵攻の始まっていなかったアフリカにおいて、保持する武器の殆どが通用しないという絶望的な戦況の中、焼夷弾を使った小規模戦略爆撃によって、キメラの撃退に成功する。
折しもバグア襲撃当初、防衛軍の消耗率・生存率は未だに軍隊が開示を渋るほど絶望的な数字であり、上官が悉く土に帰る中、彼の活躍は文字通り『特異』であり、敗戦を和らげる英雄を探した軍隊事情の中、瞬く間に昇進を繰り返し、アフリカ各地を転戦していった。
そして中将となった1999年には、バグアのアフリカ侵攻が本格化する。
既にオーストラリア戦線が蹂躙されている中、アフリカは小刻みな出没の度に殲滅していたが、この絶望的ともいえるヘルメット・ワームを主軸とした侵攻を前に、ブロックライン防衛が主軸となっていた最中、わずかばかりのイタリア軍とアフリカ戦線は3日と維持することなく壊滅する。
地獄のような後退戦の最中、アフリカに赴いていた各国の将校も次々と戦死。最後まで残った彼は、見事アフリカ陥落の一ヶ月後、実に約10年ぶりに故郷イタリアの土を踏んだのであった。
絶望的な戦局を経験し、一時は引退も考えた中将であったが、
ヨーロッパ戦線においてもバグアの苛烈な攻撃な攻撃は続いており、常識の通用しない相手に、UPC欧州軍はバリウス中将に白羽の矢を立てる。
すぐさま彼は国ごとに分裂を起こそうとしていたヨーロッパ諸国を歴訪し、協力を引き出すことに成功。
敵軍の数の少なさにつけこみ、僅かな襲撃においても大量の兵力をつぎ込むことにより(大規模な被害を負い、経済基盤は脆弱となったが)当時最上級の戦果であった『痛み分け』を幾度となく起こす。
そして、2006年。メトロポリタンX陥落と共に、軍団長に昇格した。
性格は極めて冷徹。
人的被害を省みず戦線を保つことに心血を注いでいるため、現場主義の指揮官とは度々対立を繰り返していた。
だが、他人の能力に対する評価も中立的視点に基づいており、ブラッド准将、ブレスト中尉など、経歴を問わず優秀な部下に囲まれていたことも、彼の人柄によるところであるといえるのかもしれない。
<写真 : 作戦地図を背に、ピエトロ氏。抱えている困難のためか、常に眉間に皺を寄せている>
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